わたしに残された時間はもう多くない。

 後悔がないように毎日を生きたいのに、それはなかなか難しかった。
 ―佐助が、顔を見せてくれなくなったから。
 もしかしたら、あの夜のことを気にしているのかもしれない。佐助のことだから、わたしを傷つけたとか突き放したとか、そういうことを考えてしまって顔を出しにくいと感じているのだろう。
 佐助ってば、忍としては一人前のくせに、こういう他人の感情の機微には敏感だもの。それは矛盾しているかもしれない。でも、矛盾を孕んでいたとしても、わたしはうれしかった。佐助は、ひとのこころをなくした唯の兵器ではないのだから。忍である以前に、主に仕える以前に、佐助はひとりの人間なのだ。それを奪う権利など、この世界の誰も持ってはいない。


 ――ちゃんとお礼を言わなくちゃ。


 唐突にそう思った。何の脈絡もなく、なにかの託宣のように、いま言わなければ絶対に後悔すると感じたから、身体を起こし、佐助を探すためにそのまま部屋を出た。言わなくちゃ。他の誰よりも、佐助に。


「……さすけ、佐助!」
 佐助はこの館のどこかにいるだろうか。どうかどうか、わたしの声に応えてほしい。なんだか、声を張り上げることすらくるしく感じる。


 音もなく、影が目の前に降りてくる。
 いつもの姿。ああ、よかった。ちゃんと、いた。
「いままで、どこにいたの。わたしが呼ばないと来ないなんて」
「ちょっとね。…ひさしぶり、姫さん」
「さみしかったんだから」
「うん、ごめん」
 昔々によくやったみたいに、ちょっとだけ拗ねてみた。でも、さみしかったのは本当。
 その姿を見たかった。その声を聞きたかった。どうしてそう思うんだろう。…わたしには、わからない。
 ああそうだ、いまは拗ねているときじゃない。そう思い直して、努めていつも通りに。


「ありがとう、佐助。わたしのわがまま、いっぱい聞いてくれて、ほんとうに、ありがとうね」
「な、にが、…姫さん、どうしたの」
 珍しく動揺してこちらを見上げてくる佐助を見つめながら、思ったよりも穏やかな声が出てきて、わたしは自分でもびっくりしていた。佐助のこんな顔、ひさしぶりに見た気がする。
 今日もいい天気ね、そんな口調で。
 まるで、いつもの他愛もない話をするように。
「佐助におわかれをしようと思って。もうすぐだってこと、分かるもの」


 そう、もうすぐ、おわかれ。ありがとう、ありがとう。
 そこで視界が暗くなった。心の臓がきゅううと小さくなった。
 …ああ、くるしいな。足元がふらつく。このままじゃ倒れちゃうのに――
 けれど、わたしの身体が受けた衝撃は想像していたよりもとても柔らかくて、あたたかくて、なつかしい匂いがした。それにすっかり安心して、目を閉じた。


 次に目を覚ましたのは、自分の部屋の布団のなか。馴染みの定位置、馴染みの天井だった。
 気を失ってからそんなに時間は経っていないようで、傍らには、こちらを心配そうにのぞきこむ佐助の姿があった。そんな彼に、わたしは残酷かもしれないことばを紡ぐ。
 もうすぐだってこと、分かるもの。だから、
「わたし、もう、駄目みたい」
「姫さん、いま、大将たちを呼んでくるから」
「いや、行かないで。ここに、いて」
 急いで部屋を出ようとする佐助を呼びとめた。いまここには、佐助がいてほしかったから。さいごのわがままくらい、ゆるしてくれるでしょう?彼はこちらをじっと見つめ、逡巡し、そして再び腰を下ろした。
 でもその視線はおろおろとあちこちを彷徨い、どうも落ち着かない。佐助もあわてることがあるんだなあ、とぼんやり思った。天井を見つめながら、思い出を呼び起こす。


「また、政宗さまにお会いしたかったなあ…」
「竜の旦那なら、こっちが頼まなくても勝手に押しかけて来るから大丈夫だって」
 幸村と似たもの同士でおもしろいひとだよね、とわたしは笑った。まるで、きらきら輝く青い風、そして兄のように撫でてくれた大きな手。
 幸村と政宗さまは似ている。話を聞いているだけでも楽しかった。政宗さま、お嫁に行けなくてごめんなさい。ああでももしかしたら、わたしが健康だったとしても、佐助がゆるしてくれなかったかもしれないけれど。
 ふふ、とまた笑いがこぼれる。


「…もうすぐ、春だねえ」
 わたしから視線を外した佐助が、ぽつりとそう言った。臥せった部屋のなかからでも見える、春には綻ぶであろうあの白い花の蕾を見つめながら、わたしはこたえる。
「新しいいのちが芽吹く春は、わたしのいちばん好きな季節よ」
 厳しくて冷たい冬を耐え抜いたいのちが生まれる季節。みずみずしい生命力を感じさせてくれる春は、わたしにいつも勇気を与えてくれた。緑が萌え、花が咲き、風が踊る季節。春の息吹は、すべてをあたたかく包み込む。

 死を送り、生を迎え、季節はめぐる。

「だから、春になったら父上と、幸村と、佐助でお花見に行こう。ねえ、約束だよ」
「はいはい。姫さんが言ったんだからね、約束破らないでよ?」
 わたしはこくんと頷いて、ゆっくりゆっくり片手を佐助に伸ばした。意図を察してくれた佐助が小指をわたしのそれに絡ませる。
 小指にあたたかさを感じながら、わたしは歌った。


「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます、」


「ゆびきった」


 約束だよ。
 もう一度念を押してから、わたしは目を閉じた。腕から力が抜けるのがわかる。
 なんだか眠くなってきちゃった。なにもこわくない。もう大丈夫。死も、暗闇も、なにも。この身をゆだね、眠るだけ。


 短い人生だったけれど、わたしはとても幸せだったよ。大好きなひとたちに囲まれて楽しい日々を送れたことが、何よりの思い出。
 わたしはこの世界が大好きでした。そしてこれからもずっと、大好きです。
 先立つ不孝をおゆるしください。わたしの大好きなひとたちへ。泣かないで、とは言わないけれど、泣いて、とも言いません。
 でも最後は、どうか笑顔で見送ってね。


 もうすぐ春がやって来るね。わたしはもういなくなってしまうけれど、どうか悲しまないで。守れない約束をしちゃってごめんね。みんなでお花見に行けないのが残念だけれど、これ以上欲張ったらばちが当たっちゃうから。


 ねえ、佐助。佐助に対する感情は、憧れだったのかな。わたしはあなたに、何かを遺せたかな。


願わくば、あなたの生きる世界が
うつくしきものであふれますように



「……寿々ちゃん」

(さいごに、佐助のやさしい声が聞こえたような気がしました)