物心ついたときから、わたしのそばには幸村と、そして佐助がいた。家臣ではなく"ともだち"として。それからずっと、一緒に過ごしてきた。
それはもう、ともだちなどではなく、家族のような存在だったかもしれない。
寿々はね、姫ではないの、寿々と言うのよ。だからね、寿々と呼んで?
そうわがままを言うわたしを見て、困ったように笑った佐助が「寿々ちゃん」と呼んでくれた日のことは、いまでもはっきりと覚えている。やさしく抱き上げてくれたことも。その腕は、とてもあたたかかった。
幸村とわたし、やんちゃ盛りの世話をするのは佐助のお仕事、ほんの些細なことでいじけてどこかに隠れたわたしを見つけるのも、いつも佐助の役目だった。
「寿々ちゃん、みーつけた! 今日はこんなところに隠れて」
「……さすけ、」
「さ、お部屋に帰ろう」
いやいや、と駄々をこねたら、さすけはもっとこまるかな。こまらせてみようかな。
そんなことを考えて、でも結局実行はしないで、差し出された手をおずおずと握る。わたしの手をいとも簡単に、ぎゅっと包み込んでしまう佐助はおおきくてやさしくて、いつだっておとなに見えた。
「ねえ、どうしてさすけは、寿々のいるところがわかるの?」
「俺はね、寿々ちゃんのことならなあんでもわかるんだよ」
いまにして思えば、幼子の足で歩いて行ける場所なんて限られているし、昔から優れた忍だった佐助のこと、隠そうともしていない気配を探り当てるのは容易なことだっただろう。
けれど、そのころのわたしは、佐助はなんでもできるとってもすごいひとなのだと信じて疑わなかった。そして、いつも必ず見つけてくれることが嬉しくて、わたしは隠れることを止めなかった。あるときはおんぶをしてくれたこともある。その膝に乗ったこともある。泣いて困らせたこともあった。そんなわたしをあやすように、やさしく撫でてくれる手が好きだった。
いくらひとを殺めたって、血塗れたって、その手はわたしが小さいころから知っている佐助の手だった。
―その事実は、ずっと変わらないのに。
年を重ねるにつれ、わたしの生きる世界はだんだん狭くなっていった。わたしの世界―それは部屋から見える庭の景色―空の色、鳥のさえずり、花の香り。外からにぎやかな色を運んできてくれる女中たち。それは他愛もない噂話であったり、部屋に生けられる春夏秋冬の花々であったりした。
そして、そこに鮮やかな色を添えてくれる幸村と佐助。それがすべて。このいとしき世界を狭いと言ったなら、わたしは贅沢者だと怒られてしまうだろうか。
胸の痛みは激しく、生きることは難しく―日々を過ごしていくなかで、きっと永くは生きられないだろうことを悟った。
いつからあるのか、どうしてあるのか、なんという名を持つのかさえ知らない、庭にあるあの白い花が咲き、散り、また咲くのをあと何回見られるだろうか―そんなことをぼんやりと考えもした。
死ぬということに対してはまるで無知で、死ぬという行為は果てしなく未知だったけれど、父上や幸村、佐助に"置いていかれる"ことのほうにこそ、漠然とした恐怖を感じた。
そう、わたしは置いていかれるのだ――。
彼らを置いていくのではない。だって、わたしの時間は、そのうち止まってしまうから。それでも時間は過ぎてゆく。だから置いていかれる。
小さなころはたいして背丈が変わらなかった幸村が、あっという間に大きくなってわたしをこえていき、武芸に秀で武田の誇る将となったこと。
佐助が忍として"ちゃんと"成長していって、その顔からどんどん表情を失くしていくこと―そんな、"生きるために必要なこと"がすごく切なかった。忍であることに、未熟でいてくれたらいいのに、とさえ思うほどに。
でも、それがわたしのわがままであることはわかっていたし、佐助の仕えるべきひとは幸村なのだから、愚かであつかましい願いだということもわかっていた。けれど、昔はあんなに笑っていたひとが、作った笑顔を貼りつける方法を覚えていく様を見るのはつらかった。作り笑顔の裏に隠してもいいから、覚えていて欲しかった。こころからの笑い方を。
―だから、わたしはいつでも笑っていようと思った。
佐助は、わたしよりもたくさんのことを知っていた。そして、世の中にある醜いといわれるものたちを見せないようにしてくれていた。
佐助だけではない。たくさんのひとたちに、わたしはいつもいつも護られていた。そんな人々に、わたしはいったい何をお返しできるだろう。……ただ臥せっているだけ、他国に嫁ぐこともできないような役立たずの娘を持った父上は、さぞお嘆きになられているに違いない。そのことが、いつも心苦しかった。
「わたし、だめね。女として役立たずだもの。…父上に、武田家に貢献すらできないから」
「みんな、姫さんが大好きだよ。とっても大事なんだ」
わたしはずるい。だって、こう言ったら佐助はわたしを慰めてくれるだろうから。うつむくしかないわたしを、佐助は励ましてくれた。わたしの味方でいてくれた。
わたしは、いつも佐助の優しさに助けられていた。
「ありがとう、佐助」
「姫さんに感謝されることなんて、俺様なーんにもやってないけどねえ」
「佐助が思ってなくても、わたしは感謝してるの」
いつからか佐助は、わたしのことを"寿々ちゃん"ではなく"姫さん"と呼ぶようになった。その響きを聞くたびに胸がつきんと痛んだけれど、がんばって何でもないようなふりをした。でも、なにかにつけて名前を呼んで欲しいとねだっていたから、察しの良い佐助にはばれてしまっていたかもしれない。
佐助は強情、わたしも強情。…ある日突然会いに来てくださった政宗さまは、あんなにも簡単にわたしの名を呼んでくれたのに…たった数日の滞在だったけれど、政宗さまとはすんなり打ち解けられたし、幸村と政宗さまの幾度にもわたる喧嘩(と佐助は言っていた)の話も聞けたし、楽しいことばかりだった。
狭い世界に風が吹いて、きらきらして見えるような気さえした。
だから、怖くなった。
こんな幸せな毎日が、ある日突然崩れ去ってしまうことが。父上も、幸村も佐助も館の皆も、政宗さまも、わたしと関わってくれるすべてのひとのうちで、誰かひとりでもいなくなってしまったら?今は戦乱の世。いつでもその可能性は存在している。
それが原因かはわからないけれど、倒れてしまった。このところ体調がよかったのに。体調を崩したら、また皆に心配をかけてしまうのに…。床に臥せて悶々と考えていたら、悪いほうにしか考えが向かなくなって、どうしようもなく怖くなった。夜、こっそりと部屋の前に降り立ったであろう佐助の存在に気づけたのも、いつもより神経が研ぎ澄まされていたからだと思う。
「…佐助の命は、あとどれくらい?」
「俺様の命?」
「わたしの命は、あとどれくらい? どれくらいの時間を、みんなと一緒に過ごせるの?」
「そんなの決まってるじゃないか。ずーっとだよ」
「…うそ」
すこしの間。佐助はその場を微動だにせず、決して部屋に入ろうとはしなかった。夜だから、という理由もあるかもしれない。まあ、「お仕事に行って来た」のだと言っていたから、わたしに気を使ってその姿を見せないのが大方の理由だとは思うけれど。事実、わたしは"お仕事"から帰って来た佐助の姿を見たことはほとんどない。
「じゃあね、姫さん」
「こわいの、さみしいから、ねえ、いかないで。佐助、おねがい」
「……おやすみ」
やっと佐助の気配が動いた。けれど、それはやはり部屋に入って来ることはなく、一瞬にして闇に溶けていってしまった。
ひとはいつか死ぬ。ひとにかぎらず、この世界に存在するあらゆる生き物たちは死ぬ。それはいつ?猶予はどれくらい?…わたしには、どれだけの時間が残されているの?だれも教えてはくれない。はじめて、"死ぬということ"それ自体が怖くなった。
そうして思わず、ひくりひくりと、喉がふるえた。