「はじめまして、寿々ひめさま。猿飛佐助ともうします」
「さすけ?…ちちうえ、」
幼い少女は不安そうに父親の着物の裾を握り、見上げる。その頭を撫でて、大将は言った。
「弁丸と同じ、寿々の新しい友達じゃ」
「わあい! さすけ、寿々のおともだち! さすけ!」
春の息吹のなかで、腕に抱いたその小さなぬくもりは、いまでもしっかり憶えている。
「姫様、」
「やー!」
「姫様ってばー」
「さすけ、寿々はひめさま、っていうなまえじゃないの。寿々は寿々ってなまえなの。寿々、なの」
困った。とても困った。姫様と呼ぶと、すねて返事をしない。だからと言って、気安く名前を呼べるような身分でもない。大将からは、姫様の遊び相手を務めるように言われたのに、このままでは姫様の機嫌が悪くなるばかりだ。
困り果てて、助けを求めるように大将を見ると、大将は苦笑いをして
「まこと、言い出したら聞かぬ子じゃ。寿々と呼んでやってくれんか」
と言った。大将直々の願いならば、こちらも聞きやすい。それを見越して大将は言ってくれたようだ。
「…寿々、ちゃん?」
意を決しておそるおそる名前を呼べば、はあい!と元気な返事が返ってくる。とたとたと足取りおぼつかなくやって来るこの少女が、ひどく愛しく何よりも大切な存在に思えた。忍として失格だとしても、大事にしたい感情だった。そう、あのころの自分は、まだまだ青くて甘かったのだ。
「…寿々はな、生まれつき心の臓が悪いのだ。そう永くは生きられぬかもしれん。だから、いつもとは言わぬ。できるだけ長い時間を、寿々と共に過ごして欲しいのだ」
ある日突然告げられた言葉。永くは生きられないかもしれないという、その意味がよく分からなかった。庭で旦那と泥団子を作って遊んでいる寿々ちゃんをちらりと見ても、そんな影は一切見えないのに。
「太く短く、幸せな思い出で寿々の人生を飾ってやってくれ」
「きっと長生きしますよ、だってあんなに元気なんですから」
「ワシもそう願っておる」
「大将の血が流れているんだから、間違いありませんって」
ふむ、と大将はほっと息をつく。甲斐の虎と恐れられている武田信玄も、娘のこととなると途端にやさしい父親の顔になるからおもしろい(…と言うと失礼だから言わない、が)。
「さすけ! こっちでいっしょにあそびましょ!」
「はいはーい、今行きますよっと」
綺麗な着物を泥だらけにした寿々ちゃんに声を掛けられた。大将に一礼してから、庭に飛び出す。地面にはいろんな大きさの泥団子が置かれていて、しばらくは泥団子を作るほうに集中していたけれど、何がきっかけになったのか、いつの間にか旦那と俺様で泥団子のぶつけ合いに発展していた。
その様子を、大将のひざの上で見て笑っていた寿々ちゃんの笑顔は忘れられない。さきほど言われた、大将の言葉がよみがえる。このときから、寿々ちゃんにはいつでも笑顔で居て欲しいと思うようになったんだ。さいごまで、……もしもある日突然にその命のともしびが消えてしまうことになったとしても。
「わたし、寂しかったんだからね」
「なにが?」
「佐助が、わたしのことを名前で呼んでくれなくなったとき」
時が経ち、いくらか大人びた寿々ちゃんは、拗ねたように言った。歳を重ねるごとに、寿々ちゃんが寝込む回数も増えていった気がする。陽の光に愛される人間であるべきなのに。
「寂しかったんだから」
「だって、姫さんは姫さんじゃない」
「幸村も佐助も、あっという間に大きくなるんだもの。寂しいんだよ」
「姫さんだって、どんどん綺麗になっていってるよ」
「お世辞はいいの、もう、そんなので機嫌をとろうとしたって駄目だからね!」
「そんな、お世辞じゃないってばー。ほら、お団子あげるから機嫌なおして」
「幸村じゃないんだから、…ふふ」
そう言いつつも、俺様の手から団子を受け取る寿々ちゃんは、嬉しそうだった。
嗚呼。
とてもなつかしい夢を、見た。
夢(しかも、ずいぶんと昔の思い出だ)を見たのはいつ以来だろうか。屋根のうえで物思いにふけっていたら知らないうちに眠っていたらしい。居眠りなんてめったにしない俺様にしてはとても珍しいことだったから、明日は雨かもしれないという呑気なことさえも考えていた。
寿々ちゃんのいなくなった春が過ぎ、夏が来てあっという間に秋になり、やがて冬が終わって、甲斐にも再び春が巡ってきた。悲しみに沈んでいた武田の人間たちも、季節が移りかわっていくうちに寿々ちゃんの死を受け入れて、日常へ戻っていこうとしている。もっとも、寿々ちゃんのいない日常が、日常と言えるのかはわからないけど。旦那も俺様も、なんとか毎日を生きている。
竜の旦那も、寿々ちゃんが生きているうちにまた会いたかったと、たいそう残念がっていた。とりあえず真田の旦那は、大将と殴り合いが出来る程度までには回復したらしい。(まだまだその声には覇気が足りないけど、それは大将も一緒だ。)
庭先の白い花は摘まれて、寿々ちゃんの墓前に供えられている。ついぞ、この花の名前を知ることはなかった。その気になればいくらでも調べられるのだろうけど、いまさら知るのもなんとなく野暮な気がする。だからきっと、これからもずっと名も知らない花としてそこに存在するんだろう。
たった一年ではかなしみは薄れない。いまだに、寿々ちゃんのことを思い出すたびに胸が痛くなったり、あたたかくなったり、切なくなったりして、忍として殺さなければならない感情が溢れてきてしまうけれど、いなくなった今でも、寿々ちゃんは俺様にひとであることを教えてくれているようだ。ほんと憎いね、寿々ちゃんったら。
天に近い屋根のうえ、あたたかく降り注ぐ太陽の光に目を細める。そしてそこに彼女がいるかのように、青い空を見上げてすこし笑った。
うつくしきもの
それは、きみと見た世界。
そして、きみのいた世界。
けれどなによりも、きみがうつくしかった。