姫さんがいない。いなくなってしまった。
ぽっかりと、こころに大きな穴が空いたようだ。そこにかなしい風が流れ込んで、ひゅうひゅうと音を鳴らしている。
この音色の正体は、きっとそう、空虚、だ。
たいせつなものがなくなってしまった、けれどどこを探しても、もう永遠に見つからない。一度喪えば二度とは戻らない。このわびしさを、いったい何に例えたらいいのか。彼女の身体から、ゆるりと生が抜けていくあの瞬間を、俺様は忘れられそうにない。
静かな空間の中で、どこからかすすり泣く声が聞こえる。嗚咽が漏れる。寿々様、姫様…涙混じりに彼女の名前を呼ぶ声がする。ただ雨のように、悲しみが降り注いでいた。俺は何も言えなくて、黙ったままその様子を見つめるだけだ。
ああ、そうか、姫さんはもういないんだ。
「…佐助よ、泣いておるのか」
「いやいや、大将。俺様、超優秀な忍ですよ?」
「うむ。……父親としては、複雑じゃな」
「それに涙なら、旦那が俺様の分まで流してくれますからねえ」
「こんなにも多くの者を泣かせるとは、まったく寿々も大したものよ。……のう、佐助」
「なんでしょう?」
「寿々は、生きたのだな」
よく今まで生きてくれた―大将は小さく笑いを漏らす。
そうだ、彼女は生きた、生きたのだ。あんな小さな身体に不安を隠して、いつでも笑って、生きたんだ。
いまは涙こそ流してはいないけれど、大将の目は赤く充血していた。だから、さっきまでどうしていたかなんて、想像に難くない。それを指摘するほど野暮でもない。
そしてちらりと旦那を見ると、旦那は人目を憚らずに豪快な男泣きをしていた。すごく羨ましいよ。あれくらい(まではいかないにしても)素直に感情を表せたらいいんだけど…いくら姫さんに教えてもらったとは言え、生憎、忍として長い間生きてきた俺様に、そんな芸当は不可能だ。
大人になればなるほど汚くなって、そのたびになにかが零れ落ちていく。立ち止まり、振り返ってみても失くしたものが何であるかなんて、もう分からない。死ぬときには、自分には一体なにが残っているというのだろう。何もかもを失くした、ただのからっぽのヒトガタだろうか。人間はみな同じものを持って生まれてくるだろうに、最期に残るものがそれぞれ違うっていうのは、皮肉なのか必然なのか。
もっと姫さんと、綺麗なものを見ていたかった。姫さんが知っていて俺様が知らない、いろんなことを教えて欲しかった。あの白い花の名前だって、結局知らないままだ。約束だって―…
一方的に約束を取り付けて消えてしまった姫さんはずるい。いったいどうやって、約束を果たせばいいんだろう。教えてほしい。答えが欲しい。いいや、ちがう。俺はただ、あの声を聞きたいだけなんだ。
ねえ、ほら見てよ。姫さんのために、たくさんのひとが泣いてる。旦那なんかもう、見てらんないね。あんなに泣かれちゃあ、大将だって泣くに泣けないだろうにさ。
あーあ、やっぱり、俺様は姫さんのことが大好きだったんだなあ。
この感情は、愛というにはあまりにも幼すぎたし、恋という言葉でも表現することができなかったものだけれど。だれよりも愛しくて、大切な存在だった。まったく、厄介な感情だけ遺してくれちゃってさ。憎らしいことしてくれるよね。
でも不思議と、嫌だとか、重荷だとは思わない。これは、姫さんがたしかに生きた証だろう?いつまでもいつまでも、自分が生き続ける限り憶えていられる証として、姫さんが教えてくれたたくさんのことを、しぶとく憶えていよう、と思う。笑顔も、言葉も、ぬくもりも、涙だって、ぜんぶぜんぶ忘れないから、安心して眠って欲しい。さよなら、姫さん。そっちでも、笑っていてくれよ。
そして寿々ちゃん、ありがとう。
姫さんの部屋の前にあったあの名前も知らない白い花は、あっという間に盛りを過ぎたらしく気づかないうちに散ってしまっていた。非日常の慌しさのなかですっかり忘れてしまっていたけれど、それはまるで、姫さんと一緒に逝ってしまったみたいだ。その葉だけが、主を喪った寂しさを風に揺らしている。どうかまた来年も、その花を咲かせてくれますように。
俺様の願いに頷くように、一度だけ葉が大きく揺れた気がした。
(きみが生きたその証を)