「わたし、もう、駄目みたい」
「姫さん、いま、大将たちを呼んでくるから」
布団に伏せった姫さんが言う。
もう駄目みたい、なんて、そんなことを言わないで欲しい。
そう思うのに、どうして俺は大将たちを呼びに行こうとしているんだろう?姫さんが死ぬ、わけじゃない、んだから、なにも焦らなくてもいいだろうに。まったく、思いと行動が矛盾しているったらありゃしない。
「いや、行かないで。ここに、いて」
前は振り払うことのできたその声が、なぜだか今日は拒絶できなかった。自分のなかで、何かが何かを知らせようとしている。それが何であるかを知っているのに、必死に気づかないふりをした。そう、俺は何も知らない。分からない。……そんなわけ、ないのに。
「また、政宗さまにお会いしたかったなあ…」
「竜の旦那なら、こっちが頼まなくても勝手に押しかけて来るから大丈夫だって」
幸村と似たもの同士でおもしろいひとだよね、と姫さんは笑った。
お会いしたかった―なんで過去形なんだろう。まるでもう二度と叶わないかのように言うのは何故なんだ。
「…もうすぐ、春だねえ」
「新しいいのちが芽吹く春は、わたしのいちばん好きな季節よ」
なんとか話題を変えたくて言ったその言葉に、臥せっている部屋のなかから庭を見つめていた姫さんがぽつりと返して続けた。
「だから、春になったら父上と、幸村と、佐助でお花見に行こう。ねえ、約束だよ」
「はいはい。姫さんが言ったんだからね、約束破らないでよ?」
こくんと頷いた姫さんは、空気を持ち上げることすら億劫そうに、ひどく緩慢な動作で片手を伸ばした。俺がその白い小指に自分のそれを絡ませると、小さな声で姫さんが歌う。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます、」
「ゆびきった」
約束だよ。
またそう言うと、しずかに しずかに、姫さんは目を閉じる。すると、絡んでいた小指が不意に力をなくした。
風が吹いて、葉が揺れる。それっきり何の音もしなくなって、すべてが止まってしまったような気がした。
「…やだなあ、姫さん、意地の悪い悪戯はやめてよ」
旦那と違うんだからさ、ひっかからないよ、俺様は。俺様が慌てるところが見たいだけなんだろう?どくどくどくどく。心の臓が激しく鼓動する。ほら、いまでも十分に慌てているから、だから目を開けて。落ち着け、だいじょうぶ、姫さんはきっと眠っているだけだ。唯一、"今"と姫さんを繋ぐもの、ともすると離れそうになる小指に、力を入れた。それを、姫さんは握り返してはくれなかった。
「……寿々ちゃん?」
ああ、やっと呼んだ。やっと呼べた。
寿々ちゃん、それは久しく忘れていた音の響き。もう何年も口に出せなかった名前。寿々、寿々、寿々。何かを喋っていなければ、喉がからからに渇いて、そのまま舌が張り付いてしまいそうだった。
「寿々ちゃん、起きて」
ふたりだけの秘密にしよう、いつかそう言ったのは姫さんのほうじゃないか。約束は、相手がいないと成立しないんだから、忘れたなんて言わせない。またすぐに目をぱっちり開けて、いつもみたいに悪戯っぽく笑って、
「うそだろ、寿々ちゃん、返事、してよ」
冗談だよ、って言うんだろう?
「…ねえ、あとに残された俺様たちはどうなるの」
姫さんの最期を看取ったのが、俺様だけだなんて。あの声を振り切って、大将たちを呼んで来ればよかった。うれしいのか、かなしいのかよく分からない。(いや、うれしいだなんて思うのは、いくらなんでも不謹慎だ。)じゃあ、かなしいのか?うまく表現できない感情が、自分のなかで渦巻いていた。
もういちど姫さんの顔を見てみると、口元にはゆるく笑みが刻まれていて、やっぱり眠っているようだ。…驚いた、ひとの死に顔(…本当に死んだの?どうも信じられない)にはこんなにも穏やかなものもあるんだねえ。血塗られて、恐怖に歪んだまま死んでゆく人々ばかりを見てきたから、姫さんのそれは脳内に強く灼きついた。姫さんには、たくさんのことを教えてもらった気がする。
ひとつ深呼吸をすると、約束を交わした指を丁寧に離して、部屋を出た。行くべきところは決まっている。するべきことは分かっている。大将や旦那に知らせなければならない。これからのことを思うと、苦しくて胸が張り裂けてしまいそうだった。
ほんとに、ぜんぶ姫さんのせいだよ。最期まで俺様に世話を焼かせるなんて。
現実は、いつだってそこに静謐と無情を湛えて横たわっている。