いとしき者へ
静かな朝だった。いつの間にか降り出したらしい雨は、周囲の音をその雫のなかに溶かし込んで消してゆく。政宗が目を覚ましたとき、そこにはもう紅寿の姿はなかったが、今日はまた紅寿がやって来るような気がしていた。根拠もなにもない、しかしながら漠然とした確信だった。
彼女はいつでもふらりとあらわれて、とくに何をするでもなく気まぐれに時間を過ごし、そしていつのまにか消えている。それは狐というよりは猫と形容したほうがしっくりくる女だと、政宗は常々考えている。あれはきつねではない、きっとねこなのだ。
また自分から森を訪れて紅寿と語りたいけれど、鬼のように厳しい小十郎と、容易にそれを許さない立場に、政宗はいた。自分自身でもそれが分かっているからこそ、この感情は余計にたちが悪い。そして、強情な彼女とのいたちごっこに、いい加減決着をつけるべきだ、とも思う。無論、諦めるつもりなど毛頭ない。さて、どうするべきか。
「紅寿」
「はい、梵天丸さま」
なんとなく背後に気配がすると思って声を掛けてみると、予想通り紅寿の声が返ってくる。ほうら、やっぱり来ただろう。政宗は口端にこっそり笑みを刻んだ。
「なあ、紅寿。いい加減嫁に来い。こんなにいい男、何百年生きててもなかなか現れないってもんだろ」
「一国の主ともあろうお方が、得体の知れない化け物を娶るなんて話、聞いたことがございません」
振り向いた政宗はそう切り出すが、紅寿はいろいろな感情を混じりあわせてさみしそうに笑う。
「奇遇だな。俺も化け物って言われてたんだ。同じだろ?」
「梵天丸さまは、ちゃんと人間です」
「紅寿も、だ」
「いまは戦国の世、いつ散るかもわからない命を持つお方の隣にいるのは苦しい。きっとまた置いていかれるもの。…寂しい思いはもういやです」
「独りになんてさせねえよ。俺が帰るのは、誓って紅寿のところだ」
政宗がにじり寄る。紅寿がかぶりをふると、うつくしい黒髪がおどる。彼女の言葉から、過去にも似たような思いをしたことがあったのだろうと容易に想像でき、そして悔しさを感じた。己の知らない紅寿を知っている者がいたのだ。
「梵天丸さまの手には、奥州の民の命が委ねられているのですよ。こんな女にうつつを抜かしている場合ではないでしょう? よくお考えになって」
「好いた女ひとりも満足に護れねえ男には、絶対になりたくねえんだよ」
何もかもを射抜いてしまうような強い意志を宿した隻眼は、迷いなくまっすぐに紅寿へと向けられている。その視線を静かに受け止めて、紅寿は半ば観念したように笑った。
「…梵天丸さまは、ほんとうに大きくなられたのですね」
「当たり前だろ。もう俺は梵天丸じゃねえんだからな。だから政宗って呼べ。んで嫁になれ」
「大きくなって、昔よりもわがままになってしまわれたのかしら。森に迷い込まれた頃は、あんなにも小さかったのに。ついこの前のことのようです」
「それは言わない約束だぞ、紅寿。それに俺は迷ってねえ」
「ほんとうに? 泣いている梵天丸さまは、それはもう可愛くいらっしゃいました」
いたずらっぽく笑う。いつだって紅寿は、一枚も二枚も上手だった。なにを言っても笑顔でかわされて、この手からするりと抜け出していく。しっかりとそのこころを掴めたことはない、と思う。透き通るその瞳を見つめながら、さてどうしたものか、と思案していると、紅寿が目を伏せて、独り言のようにとつとつと話し出した。
「…何百年も生きていると情にほだされやすくなってしまって、だめね。ひっそりと生きてきて、それでも時々わたしを見出してくれるひとがいて。たくさんのひとを、移り変わる時代を見送って、わたしはまだまだ生きてゆく。ねえ、梵天丸さま、ひとの命はとても儚いものです」
「だから、精一杯生きるために足掻くんだろ? ここでもし諦めてみろ、そうしたら俺はこれから死ぬまでずっと、後悔することになるだろうな。紅寿は、俺に後悔して欲しいのか?」
「後悔など、して欲しくありません。…けれど、化け物を娶って後悔しないと、なにゆえ言い切れるのです」
「自分のことを化け物って言うのはやめろ。紅寿は化け物なんかじゃねえ。後悔? んなモンねえよ。俺は俺が正しいと思った道を行く。奥州筆頭は伊達じゃねえ。近くで見てきた紅寿が知らないはずないだろ?」
「梵、!」
「紅寿。俺と一緒に居てくれ。もう独りはこりごりだ」
「…梵天、丸さ、ま」
紅寿の瞳が揺れた。それきりふたりは喋らず、雨の降る音だけが空間を支配する。
抱きしめられて、はっとした。こうして人間のあたたかさに触れたのは、いつ以来だろう。記憶を手繰り寄せても、すぐには浮かんでこない。そして、自分を掴んで放そうとしないこの身体はもう、小さな子どもではない。れっきとした一人前の男のそれなのだ、と改めて確信してしまった。時間は、たしかに進んでいる。ああ、また自分だけが取り残されてゆくのだ。かなしい、さみしい。
紅寿も、孤独に生きるかなしみを忘れたわけではない。何かを喪う虚無感に慣れることだってできない。誰かがそばにいてくれたら―、そんな淡い期待を抱いたことがないといったら嘘になる。でも、その誰かを喪うのが怖くて、必死に距離を取る方法を覚えた。化け物だと罵られ、拒絶されるのが怖くて、隠れるように生きてきた。
しかしどうやら、彼に関しては距離の取りかたを間違えてしまったらしい。
森で泣いていた小さな子どもを助けたのは、ほんの小さな好奇心―あのお城には、竜に愛されて母に愛されない可哀想な童がいる―と、紅寿のまわりの小鳥たちがしきりに噂をしていたから、それがどんな子どもなのかを見てみたかった。そう、きっかけはとても些細なことだ。
だれもあいしてくれない、森に迷い込んで涙を流す子どもに、いつかの自分を重ねた。味方などいない、すべてが敵であると感じていたあのころの自分がいた。だからこそ、ちゃんと味方もいるのだと気づいて欲しかった。かつての自分がそう気づいたように。ひとりではないのだ、と。無意識に、彼の着物を掴む力が強くなる。
「…わたしは、ただ梵天丸さまに知って欲しかっただけ。味方がいるって、独りじゃないって、それ以上は望まないのに、」
「俺は紅寿のおかげで知ることができた。だから、今度は紅寿が知る番だ。お前は独りじゃねえ」
やさしく髪を撫でる骨ばった手も、名前を呟くすっかり低くなった声も、
(……いとしい?)
誰かを愛するということ。それはどんな感情だったろう。すっかり忘れていた。否、ずっと気づかないように努力していた。抑えつけていた気持ちが、溢れだしてしまうから。梵天丸さま、そう呼ぶのだって、彼の時間が流れていくことを認めたくなかったから。いつかは過ぎていってしまうひと。自分を追い越して、自分とは異なる時間を生きていくひと。自分とは違う、ひと。だから、
「大体なァ、普通の人間よりちィっとばかし時間の進みが遅いだけだろ? そんなに深刻に考える必要なんざねえんだよ。そこらの年頃の娘と変わらねェじゃねえか」
「はなして下さい、梵天丸さま」
「政宗、だ」
「梵天丸さま!」
「聞こえねえ」
紅寿の肩に顎を乗せ、さらに彼女をしっかりと抱き込んだ政宗は、どうにか抜け出そうともがく彼女のささやかな抵抗など一向に意に介さない。
「…政、宗さま、は、本当にわがままなお方」
観念した紅寿がたどたどしくその名を呼んでも、拘束する力は弱まるどころか強くなっていく。
目の前が滲んで見えるのは、あまりにも強く抱きしめられているせいだと信じたい。頬を伝う涙のあたたかさなど、感じない。
「泣いてんのか? うれし泣きだな」
優しく目を細めてこちらを覗き込む政宗に気後して、思わず目を伏せてしまう。顔に熱が集まっているのがわかる。
「ち、ちが、います、梵天丸さまが、」
続く言葉は、唇によって塞がれてしまった。それを受け入れてしまいながら、やはりもう子どもではないのだと、紅寿はぼんやり考えた。
「政宗」
「……政宗さまが、なんだか今日はいじわるだから」
「俺ァ、もう待ちくたびれたんだよ」
してやったりと笑う顔は、少年のころと何も変わっていなかった。もしかしたら、待っていたのは紅寿のほうかもしれない。すべてを受け入れて、こころから自分を必要としてくれるような、そんな誰かを。
いつの間にか雨は上がっていた。部屋にあたたかな光が差しこんできて、紅寿は濡れる目を細めた。
きらきらと輝く世界は、こんなにも美しかっただろうか。