竜の右目と狐

 相も変わらず、実母の自分に対する反応は冷たいものだった。しかしそれがいつの間にか、前よりも気にならなくなっていた自分に驚く。そこには、信頼できると分かった小十郎の存在があり、それに気づかせてくれた紅寿には、森に行けば会えたからである。
 あるときは木の上から、あるときは鹿の群れのなかから、またあるときは水に濡れたままで、梵天丸がその名を呼べばいつでも紅寿は現れた。(何をしていたのかと問えば、鳥と一緒に空を見ていただとか、鹿と戯れていたとか、ただ水浴びをしていただけだと彼女は笑って答えた。)


 梵天丸はこの時間が何よりも好きだったし、紅寿のことを慕うようになっていた。慕うということが一体どういう感情なのか、良いものなのか悪いものなのか、幼い梵天丸にはまだ理解できていなかったが、ただ、彼女に対して特別な想いを抱いていることだけは漠然と感じていた。きらきらとひかるその蒼色の双眸を細めて笑う紅寿を見るのが好きだった。
 出逢ったばかりのころは、幼い政宗が日々の合間を縫って森を訪れていたが、年を経るにつれて次第にそれも難しくなっていく。まして、一国を背負うようになれば尚のことである。


 だから、元服を迎えた十二の年に、政宗は紅寿に言ったのだ。すこしだけ背伸びをして、ある種の傲慢さをもって、単刀直入に「嫁に来い」と。この時点で、自分が紅寿に向ける感情は単なる親愛の情だけではないのだと悟った。
 しかし、それを聞いた紅寿は、いつもの笑みをその顔から消して、厳しい声音で「梵天丸さま、それはなりません」とにべもなく断った。冷たい蒼色と、予想していなかったその拒絶に少なからず傷ついた政宗だったが、それでも諦めずにことあるごとにかの言葉を繰り返し、紅寿も頑なに拒絶を繰り返した。幾度も季節は巡れども、いつまで経っても堂々巡りだった。

 政宗自身は本気だったけれど、思えばそれは欲しいものが手に入らないと分かった子どもが、半ば意地になって駄々をこねているだけだったのかもしれない。
 なかなか森の外へと出ようとしなかった紅寿が、政宗の居室に神出鬼没に現れるようになったのも、この頃である。それはお互いが歩み寄ることのできる、最高唯一の妥協案だったのだ。
 そうしているうちに七年の歳月が過ぎ、政宗は未だに正室を迎えていない。このことは、小十郎をはじめとした家臣たちが気を揉んでいる事態でもあった。ひいてはこの国を揺るがしかねない問題にすらなりうるからである。


 もっとも、紅寿とその真の正体を知っているのは政宗と小十郎だけだったから、その他の城の者は一向に嫁を貰わない城主に首を傾げて困惑するばかりだった。
 たまに小十郎と紅寿が顔を合わせることがある。そんなときには小十郎が政宗の申し入れを受けて欲しいと頼むのだが、彼女の答えはやはり否であった。
紅寿殿を嫁に貰うと、政宗様が言ってきかぬのです」
「ふふ、まるで子どものよう」
「ですから紅寿殿、どうか政宗様の願いを聞き届けてやってくだされ」
 小十郎の懇願に、紅寿は微笑んだまま首を横に振った。幾度も見た、やわらかな拒絶。その笑顔は寂しそうに翳っている。紅寿も、ただの意地で闇雲に断り続けているわけではない。主の気持ち、紅寿の気持ち。その両方を理解しているからこそ、小十郎の気苦労は絶えなかった。
「…やれやれ。どちらもとんだ頑固者だ」
「小十郎さまも、化け物を娶る主君など見たくないでしょう?」
「俺は、…政宗様の決めたことには従うつもりです」
「お上手な逃げ方」
 くすりと紅寿が笑う。主には幸せになってもらいたいと思っている。この戦国の世では難しいこととは理解しているが、出来れば望んだ相手と夫婦になってほしい。それは本心だ。しかし―
 この笑みは、暗に自分を皮肉られたのだろうか。彼女の表情からは言葉の真意が読み取れなかったが、少なからず自分のこころの内を見透かされた気がして、小十郎はひやりとした。


*


 「小十郎、お前にも知っていて欲しいやつがいる」のだと、ある日、はじめて主から紅寿を紹介されたときには、目の前の存在がまったく信じられなかった。けれどその一方で、このような種類の生き物もいるのだ、とどこか冷静になっている自分も存在していた。


 ―紅寿と言うんだ。こんな見かけだが、これでもずっと長い間生きてるんだぞ! 小十郎よりもずっと、父上よりもずっと、だ。前に森に入ったときに出逢って…―


 疱瘡に罹り右目を失って以来、誰にも―自分にさえも―こころを開こうとしなかった主がすんなりと懐いた、黒髪碧眼の女。正直、悔しいと思った。
 それに、害をなさぬ者だという確証などどこにもない。幼い童に取り入り、懐柔することなど容易いだろう。何かしら理由をつけて引き離そうとしたが、結局無駄に終わった。
 紅寿に対する、主の無意識に近い執着には目を見張るものがあったし、何より紅寿と出逢った後の彼の表情はだんだんと昔の快活さ、年相応の明るさを取り戻していったからだ。そしてそれにもやはり、悔しさを感じた。
 笑顔を取り戻させたのは、近くで見守り仕えていた自分ではなく、いきなり現れ出た妙な女だったのだから。しかもそれは人ではないという。だからといって、ちゃんとしたあやかしでもないらしい。よく分からないうえに腑に落ちないことこの上ないが、とにかく受け入れるしかないようだった。


 そういえば―と、自分の主が城から消え、大慌てで探し回ったときのことをふと思い出す。
 あのとき、何かに呼び寄せられるように森のそばまで行ってみたら、見計らったように探し人本人がそこから出てきたのである。あのときの言葉、「また来るからな!」は、森に住む彼女へ向けたものだったのだと、今更ながら理解できた。ああ、そうだ。主が城を抜け出し、その度に大騒ぎをすることが増えたのはあの頃からだった。
 何度も後ろを振り返りながら名残惜しそうに歩いてきた梵天丸は、前方に小十郎たちの姿を見つけると驚いたらしく立ち止まった。どうしてここにいるのだ、という表情をしていたと言っても過言ではない。そして、安堵感から涙を流す自分たちを見て、戸惑いながらもたどたどしく「ありがとう」と言った主の、霧が晴れたような顔を、小十郎は忘れられなかった。


*


「政宗様は、愛を欲していらっしゃる。俺はただ…政宗様には、政宗様が望まれたお方と幸せになってもらいたいだけです」
「ええ、わたしも」
「ですからどうか! 紅寿殿、」
「ねえ、小十郎さま、わたしは一体どうすればいいのでしょうね」
 わたしは、あなたたちとは違うから―そうやってため息とともに吐き出された言葉には、かなしみとさみしさと、そして戸惑いが滲んでいた。その横顔は美しく愁いを帯びている。