彷徨える記憶
呼吸することさえも辛い。もうどうにも我慢出来なくなって、苦しくなって、こっそりと独りで城を抜け出した。誰も心配なんてしてくれないだろうと思っていたし、こんな化け物みたいな自分はいなくなるほうが母上もよろこんでくれるはず。子どもながらに、否、子どもだからこそそう考えていた。…いなくなったら、母上は笑ってくれるだろうか。
鬱蒼と茂る木々の間を歩いていく。どこまでやって来たのか見当もつかない。しばらく進むとさすがに疲れて、適当な木の根元に腰を下ろした。上を見上げても、背の高い緑に遮られて青い空はあまり見えない。時折吹き抜ける風が葉を揺らすだけの、静かで寂しいけれど、息苦しくはない空間だった。
―やっぱり梵はひとり。この右目のせいで化け物だと言われても仕方がないのだ。きっと生きていてはいけないモノなんだろう―
惨めになると同時に、視界も曇っていく。城の者がいる前では決して見せることはない涙。いつだっておとなの目があるところでは、虚勢を張っていなければこころが折れてしまいそうだった。だが、そうしていても、実母はそれがまた薄気味悪いと罵る。
ならば、いったいどうしたらいい?その問いに答えてくれる者はいなかった。
「ねえ坊や、こんなところにいたら、悪いもののけに食べられちゃうよ」
「……べつに、いい」
いきなり声を掛けられたにもかかわらず、驚きはしたものの恐怖などは一切感じなかった。それが女の、それも優しげなものだったからなのか、自分がすべてを諦めかけていて、襲われようが喰われようが、もうどうなってもいいと思ったからなのかは分からない。近づいてくる気配に、顔を上げないまま返事をした。
そうしたらまた、きょとんとした声が返ってくる。
「いい?どうして?」
「梵は、ばけものだから」
「化け物?誰がそんなことを言うの?」
「…母上が、」
「そう。それは辛いでしょう」
それだけ言うと、目の前まで来ていた女は頭をゆっくりと撫でる。こうして誰かに頭を撫でられたことが今までにあっただろうか。昔のことは、あまり覚えていない。その手つきがやさしくて、母上もこうであったら良いのに、と思うとまた涙があふれてきて、知らず知らずのうちに言葉がこぼれていた。
「あいしてほしいだけ、なのに」
「うん」
「梵がこんな目をしているから」
「うん」
「だれも、あいして、くれない」
「…ううん、それは違うよ、坊や。坊やのことを大切に思ってくれているひとは必ずいるの」
「そんなもの、いない!」
たった今出逢ったばかりのこの女に、自分の何がわかるというのだろう。知ったような口を利いて!
すこしだけあたたくなりかけていたこころが、ぶるりと震えて急激に冷えてゆく。睨みつけてやろうとして、勢いよく顔を上げた。そしてそのとき初めて、梵天丸は自分の頭を撫でていた女の姿を認めたのだった。
赤い彼岸花を袖と裾に散らした、肌色と溶け合いそうな白い着物。それと対するように、おろされた長い髪は漆黒だ。けれども、その黒は恐れを抱かせる闇のような色ではないのが不思議だった。
何よりも目を奪われたのは、輝きに満ちたその双眸。空よりも空らしい蒼色の瞳が、こちらを見つめていた。
女―少女と言ったほうが正しいのだろうか。あどけないようでいて、それにしては大人びた話し方をする。
「坊やが気づいていないだけ。必ず、味方はいるんだよ」
「いなかったら、どうするの」
「いなかったら?…ふふ、そんなことはないよ。わたしはもう、坊やの味方だから」
「……お、おまえ、梵のこと、なにもしらないだろ!」
「さあ、それはどうだろうね」
そう言って女は微笑む。いつの間にか、涙は止まっていた。
*
「おまえの名は」
「ふふ、名乗るときはまず自分から、って、誰かに教えてもらわなかった?」
「…梵天丸」
「そう、梵天丸と言うの。はじめまして、梵天丸さま」
むすっとしながら答えた梵天丸に、女は笑ってそう言った。揃って大木の根元に腰掛けると、常に口元に笑みを浮かべているその女は紅寿と名乗った。身なりからして、城の人間でもなく、敵でもなく、はたまた農民の様子でもない。自分の知っている限りの身分のどれにも属していないような人間と話すのは、妙な心地がする。紅寿は何者なんだろう。どうしてこんなところにいるんだろう。
「紅寿はこの森に住んでいるの?」
「うん、そうだよ」
「いくつ? どうして? さみしくないの?」
「いまは…十七くらいかな。昔、梵天丸さまと同じようなことを言われてね。言われるだけならまだしも、命が危なくなったから逃げてきたの。それからはずうっとこの森がわたしの住処。さみしくはないよ。こんなわたしだけど、みんな優しくしてくれるから」
「紅寿は、何者なの?」
「さあ、なんだろう? 人間かもしれないし、狐かもしれないね」
「…きつね?」
「わたしは中途半端なの」
さえずる小鳥を指にとまらせた紅寿は、それに優しい目を向けながら答えた。自分は"中途半端"だと。
にんげん、きつね。その言葉の意味に疑問符を浮かべる梵天丸に微笑みかけて、紅寿は立ち上がった。
「お話はおしまい。おいで。梵天丸さまの帰る場所まで、案内するよ」
紅寿と話しているほうが心が休まっていることに気づき、辛いことばかりの城になど帰りたくなかった梵天丸だが、
「ねえ、梵天丸さま。帰る場所があるっていうことは、とても幸せなんだよ」
「……ふうん」
笑顔でいるというのに拒否を許さないような紅寿の雰囲気に、差し出された手を遠慮がちに握ってしぶしぶ立ち上がる。その白くて細い、美しい手はあたたかい。
道すがら、この森に棲んでいると思われる多くの生き物たちが、木の陰からこっそりとこちらを窺い見ていることに、薄々ながら感づいていた。敵意はなさそうだが、ただ見つめてくるということがかえって少し不安にさせて、無意識に隣を歩く紅寿の手を強く握る。すると、彼女は笑いながら
「梵天丸さまのことを心配しているんだよ。だから大丈夫」
と言う。ついで、茶化すように「怖がりだねえ」とも言われ、手を離すことはしなかったけれど、悔しくなって目を逸らした。
鬱蒼とした空間を抜けると、光が多く差し込んでいる森の終わりが見えてくる。しかしその手前で紅寿は立ち止まり、誰に言うわけでもなく呟いた。
「…梵天丸さまは、天翔ける竜に愛された子ども。いずれはこの地をお治めになるお方―」
「え?」
「さあ、お帰り。梵天丸さまを待っているひとがいるよ」
笑っただけの紅寿に、とん、と軽く背中を押されて、幾度となく振り返りながらも仕方なく光があふれる森の出口へと歩き出した。
そして森を抜けたところで、彼を探していた小十郎や家臣たちに、さんざん泣かれることになる。その涙の意味を理解し、初めて梵天丸は味方の存在に気づいたのだった。「ほらね、言ったとおりでしょう?」と、森のどこかで紅寿が笑っている気がした。
「また来るからな!」
森へ行けばかならず紅寿に会えるという確信が、どこからともなく湧いてきた。もちろん森のなかから言葉が返ってくることはなかったし、小十郎たちにも不審がられたが、それでも梵天丸は満足だった。この森には、自分の味方が住んでいるのだから。