たとえば、の話。
ここでわたしが「行かないで」と泣いてすがったら、未来は変わってくれるだろうか。
わたしのその態度で、この先起こるであろう"運命"を、彼は悟ってしまうのだろうか。
ちいさな子どもが駄々をこねるように泣くわたしを見て、困ったように笑う幸村の顔がありありと想像できて、すこしだけ笑いがこぼれる。
無駄かもしれない、変わらないかもしれない。そう思っても、わたしは――
この世界で生きるには、未来から来たわたしは"運命"を知りすぎていた。それでも、すべてが史実通りの世界ではなかったから、違う結末が待っているかもしれないという期待も抱いていた。
…なのに、望んでいないところだけが"歴史"だった。
わたしは何も力を持たない。
運命を変える術を持たず、すがるしか能のないただの女。
結局、なにもできないままで彼を見送ろうとしている。
「…ほたる殿、某は行かなくてはならぬ」
「いやだ、行かないで。おねがい、幸村」
無駄だと分かっているから、言うのだ。なんという皮肉だろう。
どんなに叫んでも、泣き喚いても、変わらないと分かってしまったから。
「ほたる、」
「大好きなの。ねえ、幸村、お願い。行かないで。そばにいて、ずっと」
わたしの涙は止まることを知らない。濡れる頬の冷たさなんて、いまどんなに醜い顔をしているかなんて、そんなことはどうでもよかった。
ただ、時間が止まってしまえばいい。ただただ、あなたを失いたくないだけなのに―優しく涙をぬぐってくれる存在がいなくなるという事実が恐ろしい。
わがままでごめんなさい。ひどい女でごめんなさい。自分の存在がひどく呪わしかった。この時代のただの娘として生まれ、生きることができたのなら―それはどれだけ幸せな人生だっただろうか。そうしたら、結末なんて知らなくてよかったのに。きっと出会うことなんてなかったと思うけど、栄光をその手に華々しく帰城する、ひそかに恋焦がれた武将の遠い姿をこころに描いて、無垢な気持ちで待っていられたのに。彼の勝利を、信じて疑わないままでいられたのに。
「やだ、やだよ、幸村。行かないで。ひとりにしないで。わたしの存在理由を、なくさないで」
そのたくましい胸板を叩くわたしの手は、幸村のあたたかい両手によって包み込まれた。そう、あたたかい。いま幸村は生きている。そして、これからも生きていかなくちゃいけないひと。
彼のぬくもりを感じていられる、この刹那が永遠であればいいと思った。
「この幸村、斃れることなどありはせぬ。誓って、ほたるのもとへ帰って来よう」
こちらをまっすぐに見つめる幸村を見て、わたしはすがる言葉さえ失くした。幸村は決して立ち止まることはないんだろう。臆することなく、敵に向かってゆくのだろう。たとえその槍が折れたとしても。己の命が尽きると知っていても。
これが、真田幸村という武士なのだ。わたしのだいすきな、真田幸村そのひとなのだ。
「だから、安心して待っていてくだされ」
まったく、ほたる殿は心配性でござるなあ―
人懐っこい笑顔すら浮かべて、幸村はそう言う。そして、歴史は変わってくれないのだと、わたしはようやく頭で理解した。
「待ってるから、…ずっとずっと待ってるから、ぜったい生きて帰ってきてね、…佐助もだよ」
「はいはーい、わかってますよっと。俺様たち、強いしねー」
どこからか音もなくあらわれた佐助は、ひらひらと手を振りながら飄々とした口ぶりで言う。いつもどおりの佐助の態度に、すこしだけ、ほんのすこしだけ、安心できた。
「わたしに許可なく死んだら許さないから」
「ほたるちゃんはおっかないからねえ。這ってでも帰ってくるって。ね、旦那」
「無論。では、行って参る」
「じゃあねー、ほたるちゃん。いい子で待ってるんだよ」
「いってらっしゃい。……ご武運を」
ご武運を、なんて滅多に使わないような言葉で彼らを見送る。幸村も佐助も、ちょっと驚いたような顔をして、それから笑顔になって、わたしの頭を撫でてから、そうしてようやく出て行った。
いままでだって、幾度となく彼らは戦へ赴いたけれど、わたしがこの言葉を使ったことは一度だってなかったから。
いってしまう。行ってしまった。…このまま、逝ってしまうのだろうか。
すべてを背負って立つ幸村の後姿はとても凛々しくて、こちらをもう振り向かない彼は遠く感じられた。まるでそれは幸村自身の決意のように。
のこされたわたしはひたすら、幸村や佐助、それにほかのひとたちの無事を祈ることしかできない。ひとりで闇夜を、朝日を迎えて、ずっとずっと祈っていた。どうか無事でありますように、大怪我をしませんように。みんなが帰ってこられますように。笑顔でまた、いつもと変わらない日々を送れますように。
しかし、切実な願いほどもろく崩れさって、その破片は容赦なくわたしのこころに突き刺さるのだ。
「ほたる様! 幸村様が―…」
そこで世界は暗転する。もう何も聞きたくない、見たくない、知りたくない生きていたくない。
「幸村、幸村幸村、嘘でしょう。ぜったい帰ってくる、って約束したんだから、嘘でしょう!」
思い出だけを置いていくなんて、ずるいよ。
信じたくないのに、現実は無情にも真実をわたしに突きつける。目を逸らすことすら許してはくれない。溢れる涙は血のように頬を流れてゆく。そうしてそのまま、わたしを絶望で染め上げる。
泣きつくして、目がつぶれてしまえばいい。叫びつくして、喉がつぶれてしまえばいい。彼を認識できない五感なんて、わたしにはもう必要ない。愛するひとのいない世界なんて意味がないのだから。
それでも世界は変わらない
人間は忘却する生き物だ。幸村の笑顔とか、槍を振るう姿とか、ともに過ごした日々だとか、そういうのを忘れてしまったらどうしよう。時間は、思い出を美化して風化させてゆくおそろしいものだから、もしかしたらいつの日か忘れてしまうかもしれない。
そうなるまえに、すべてをまだ憶えているうちに、わたしはこの心臓を止めてしまいたかった。生々しく血の通った記憶だけを胸に抱いて。