もう人生のどこにも、生きている意味なんて見出せなかった。
だからさっさと死んでしまいたかった。
けれど、死ぬことができなかった。
短刀を首筋に近づけてみても、そこから先の動作を、震えるわたしの手は拒絶した。 なんて臆病な。ただ一筋斬りつけるだけなのに、生きていたくない、死んでしまいたいと強く願うくせに、まだ生に固執しようとするこの浅ましさにひどい吐き気がした。
死ぬということ。
いままでわたしは、そのことを分かったつもりでいた。なのに、全然理解していなかった。
常にその覚悟を持って戦場に立っていた彼らは、なんて強いひとびとだったのだろう。
常に死と隣り合わせのなかで刃を交える彼らは、なんて強いひとびとだったのだろう。
そんな彼らも、いまはもういない。隣で微笑みかけてくれることも、ない。帰ってこない。二度と帰ってくることのないひとびと。
かえして。あのころの時間を返してよ。
この感情の捌け口なんてものはなく、今日もわたしは生きてしまう。朝が来ることに絶望を感じた。
浮かんでは漂い、寄せては返す記憶の波は、確実にわたしを絶望へとさらってゆく。すべてを抱えて、ひとりぼっちで生きていけるほど、自分は強くない。
喪失のどん底でかろうじて呼吸するわたしがすることといえば、時間の許す限り空を見上げるだけ。移りかわる空の色にも、流れゆく雲の形にも、何の興味も示さないでただ見つめているだけの毎日。その実、わたしの両目は空を見てはいないのだ。
薄まっていこうとする記憶の流れにひたすら抗うために、彼のいた日々を辿っている。カメラや写真なんてものは当然存在しない世界だから、脳裏に灼きついた面影でしか、思い出を探すことができない。
たとえば―縁側で一緒に団子を食べたことだとか、幸村がお館さまと殴り合いをする様子をはらはらしながら見てたことだとか―
しあわせだったからこそ、いまとなっては、それがどうしようもなく悲しかった。
忘れてしまう、このまますべて忘れていってしまう。それが一番おそろしい。
からだがだるい。腕が重い。食事をするのも億劫だった。いっそこのまま飢え死にしてしまおうか。それがいい。
秋の気配をはらんだ風が頬を撫でる。それに身をゆだねたまま、いつの間にか眠っていたわたしは、草履が地面を踏みしめる音にすこし違和感を覚えて、重い瞼を持ち上げた。
そして、覚醒しきらない脳内に、聞きなれた声が響いた。
「ほたる殿」
「…………ゆうれい?」
きっと何かを見間違えているのだと思った。だって、目の前に、二本の足で立つ幸村の姿が見えるのだから。そして、幸村の声が聞こえる。幻覚に幻聴。ついにわたしは頭までおかしくなってしまったみたいだ。
それともこれは夢?うん、きっと夢なんだ。じゃなきゃ、こんなこと、
「生きて帰ったのに幽霊扱いとは、ほたる殿もひどいでござる」
ひとりごとに、ちゃんと言葉が返ってきた。間違いなく、目の前の人物から。屈託なく笑う彼は、あの日送り出した彼のままだった。
「うそ、ゆきむら…、幸村、…なの?」
「真田幸村、ただいま帰りもうした。遅くなり、まことに申し訳ない」
「生きて…生きてたんだ、ね、幸村」
「もっと早く帰ってくることができたら良かったのだが…」
会いたくて、会いたくてたまらなかったひと。聞きたくて、聞きたくてたまらなかった声。
わたしの腕は、まだそのたくましさを覚えている。その声のあたたかさを覚えている。
「ほーんと、口を開けば帰る帰るってさ! 全身ぼろぼろだってのに、三日で治るとでも思ってんのかね、うちの旦那は」
「佐助…! 無事だったんだね!」
また聞きなれた声がして、いつの間にか幸村のとなりに、やれやれと肩をすくめながら佐助が立っていた。
「あったり前じゃん。俺様がそう簡単にくたばるわけないでしょ! ほたるちゃんがさみしがってないかなあ、って心配で心配で」
「さみしかったよ。幸村が死んだって聞いて、死のうかと思ったくらい、つらかった。でも死ねなかったから…」
「ほたる殿…」
はだしのままふらふらと、おぼつかない足取りで幸村のほうへ歩いてゆく。はやく、この手で確かめたい。緊張と感動と驚嘆で、からだじゅうにうまく力が巡らなかった。
そんなわたしを見た幸村が慌てて駆け寄ってきたから、そのまま倒れこんだら、ちゃんと幸村が、いた。あったかい。生きている。やっと、信じられた。
「だから、うれしい。本当に、うれしいの。また会えてよかった」
「某もだ。ああ、こんなに痩せて…ずいぶんと待たせてしまったな」
幸村の親指がわたしの頬に触れる。
「ううん、そんなこと…。幸村、佐助…おかえりなさい、帰ってきてくれて、ありがとう」
あの日見送った彼らが、そこに、いる。驚きすぎて流すことも忘れていた涙が、思い出したようにようやく溢れ出した。あのときとは違う、嬉しい涙が頬をつたってゆく。
ほたるちゃん、泣き虫になったねえ―と佐助が茶化すから、いったい誰のせいだと思ってるの、と睨んでおいた。凄みもなにもない顔だったと思う。
「今度はずっと一緒にいてね。約束だよ」
「無論。この幸村、約束を違えることなどありはせぬ」
やさしくほほえんだ幸村は、やさしくわたしを抱きしめる。夢じゃない。
「もちろん、佐助も」
「はいはい、これからも世話を焼かせていただきますよっと。とりあえず、目の前でいちゃいちゃしないでよね。再会して早々お熱いこって」
佐助のお小言を聞けるのも、幸村とふたりで笑いあえるのも、もう二度とないことだと思っていたから。
現金なもので、いままでの苦しみとか悲しみとか孤独とか、そういうものがぜんぶ一気に吹き飛んだような心地がする。夢じゃない、でも夢のよう。幸村も佐助も、生きている。生きて帰ってきてくれた。言葉に言い表すことができないくらいに、しあわせだった。