「旦那、本当に後悔してない?」
「当たり前だ。俺がここで戦うことで、ひいてはほたる殿を護ることになる」
「どうせだからさ、このまま天下も奪い取っちゃってよ」
「…佐助。某にもしものことがあっても、お前だけは生き延びるのだ」
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよねー。そういうの困るってば」
「万一の場合だと申しておろう。それに、これは命令だぞ」
「我が儘な命令だねえ。ま、そんなことは千が一も億が一もないと思うけどさ。一応了解しましたよ」


護りたかった、たったひとりを。
悲しませなくなかった、愛しいひとを。
嗚呼。帰りたかった、彼女が待つ場所へ。

いとしきひとよ、永遠であれ

 視界が霞む。心の臓が、まるで警鐘を鳴らすように耳の奥で激しく鼓動する。指先から冷えていく。全身を巡る痛みすら麻痺してきて、もう駄目かもしれない、とそのときはじめて思った。
 いままでの俺がしてきたように、この首も誰かに討ち取られるのだろうか。


ほたる殿、申し訳ございませぬ。この幸村、約束を違えることをお許し下され)


 護りたかった、愛しかった、ずっと共に生きていきたかった。されど、最早それも叶いそうにない。脳裏に浮かぶのは、いつも見た彼女の笑顔。出陣を告げた日の、あの泣き顔。そして、無理をして笑って言った、あの言葉。


『……ご武運を』


 ひたすら自分を留めようと懇願するその姿を見て、勘付かずにはいられなかった。けれど、来るべき未来がわかっていたとしても、俺は行かねばならなかったのだ。否、未来がわかっているからこそ、それを変えられるかもしれぬという思いもあった。…しかしどうやら、結局は彼女の知る未来と変わらぬものになってしまうらしい。
 ほたるは、息災でいるだろうか。あの笑顔のもとへ、もう帰れぬことがとても口惜しい。地面に倒れたまま、高く青く澄んでいる空を見上げていると、そこに一点の影が出来る。ぼんやりとしている視界に、馴染みの深い姿が映った。


「起きろ旦那! 死んじゃ駄目だ! ほたるちゃんが待ってるんだろ!?」
「…俺、は、幸せだった。ほたるに出逢えて、同じときを過ごすことができて」
「俺様に言うなって! そういうのはちゃんと本人に言うもんだよ、旦那!」
「ああ、ほたるに…、一言―」

 某の言葉を、佐助、頼んだぞ― ふ、と笑うと、そのまま旦那は目を閉じた。
 途端に戦の喧騒が一気に遠のいてゆく。その身体から流れ出る血の鮮やかさが目に染みた。目の前の現実がどうしても信じられなくて、


「約束はどうなるんだよ! 起きろよ!! 真田幸村はこんなもんじゃない、って! こんなところで終わる男じゃないだろ! 真田幸村!」


何度旦那をゆさぶっても、どうやっても、その目が再び開くことはなかった。戦場には似つかわしくない、穏やかな死に顔だった。 信じられなかった。 死んだ? 嘘だろ、冗談じゃない。旦那には生きてもらわないと困るんだよ。


「畜生、畜生…! おい、まだ生き残ってる忍はいるか!」
「は! かろうじて数名ほど」
「そいつら全員こっちに回せ! 旦那を運ぶぞ、首は取らせない! 死んでも活路を開け!」
「承知!」

 旦那が斃れた今、どこの軍勢が勝とうが、誰が天下を取ろうが、そんなことは俺にはもう関係ないのことだ。俺の任務は(まったくもって不本意だけど)生き延びることらしい。
 旦那の最後の命令だ。こうなりゃ、手足が千切れても、たとえ死んだって遂行してやる。―急ぐは、旦那を待つ彼女のもとへ。



紅の初花染めの色ふかく 思ひし心われ忘れめや



ほたるちゃん、」
「さ、すけ…?」
 それは秋も深まり始めたある日のこと。幸村が死んだと聞いて、そのくせ死にきれずにうつろなまま日々を過ごしていたわたしのところへ、あちこちに傷を作って、ぼろぼろの戦装束を纏った佐助だけが、何の前触れもなく現れた。当然のことだけど、そこに幸村の姿は見当たらない。
 さみしそうに、つらそうに、視線を落とした佐助は呟く。
「俺だけ、生き残っちゃったよ。…でも、これがさいごの任務だ」
「うん…おかえり、佐助。ごくろうさま」



紅色の初花染めの色が深いように、あなたを深く恋い慕った心を、
私は忘れることがあるだろうか(いや、忘れることなどない)



ほたるちゃん、ごめん、旦那を連れて帰ってこられなくて。ごめん」
「…ううん。しかたない、よ」
 いきなりそう切り出した佐助に、力なく答える。
 なにが仕方ないっていうんだろう。自分で言っていて嫌になった。幸村の最後の姿を見れないことを残念に思う一方で、その亡骸をこの目で見ないかぎりは、その死を受け入れなくていいのかな、とさえ思う自分の往生際の悪さにさらに嫌気がさす。
「代わり、ってわけじゃないけど、これ」
 佐助が遠慮がちに取り出したのは、主を亡くした二槍だった。傷だらけの刃が、ぽっきりと折れてすっかり短くなってしまった朱色の柄が、その奮戦ぶりを物語る。こびりつく褐色は、誰のものだろう。
「幸村の…」
「俺には、これが精一杯だったんだ。…なんか言い訳がましいね」
「そんなことないよ。ありがとう、佐助。大変だったでしょう、お疲れさま。本当にありがとう」
「旦那、ちゃんと頑張ったよ」
「うん、きっとそうだよね」
 なんとなく幸村の体温を感じられる気がして、受け取ったその朱色に触れながら、わたしは答えた。がんばったんだね。あなたのことだもの、さいごまで立ち向かっていったんでしょう。ほんとうは帰ってきて欲しかったけれど…戦場で眠ることができて、本望なんじゃない?
 おかえり、幸村。


「最期まで、ほたるちゃんの心配してた」
「わたしの?」
「うん。旦那から、ほたるちゃんに言伝を預かってきたんだ」
「わたしに?」


ほたるに、一言、幸せになれ、と』


 ぷつん、と張っていた糸がどこかで切れる音がした。


「…死んでいくほうは楽だよ、いくらこの世に未練があるって言ったって、死んだ途端にそれもおしまいなんだから。でも、遺されるほうの気持ち、考えたことあるの? それとも、戦だから、って理由で片づけるの? こんな気持ちになるのはわたしだけじゃないってことくらい分かるよ。いままでだって、たくさんのひとが、誰かを喪う苦しみを味わったってことくらい、分かるよ。だけど! ひどいよ幸村。わたしだけ幸せになんてなれない。いないのに、もう幸村はいないのに!」


 言ってしまってから、いちばんつらいのは、その死を間近で見届けたこのひとなのだということにやっと気づく。あわてて口を噤んだけれど、もう意味はなかった。

「…佐助だってつらいはずなのに、ごめんね。ありがとう、ほんとうに、」
 ありがとう、ともう一度言おうとしたけれど、言えなくなってしまった。
 泣き暮らして枯らしたはずの涙が、またどこからか溢れてきてしまって、言葉が続かない。
「俺様は忍だからさ、大丈夫だよ」
「忍だからって、割り切れる、もの、じゃないでしょ? 人間、なんだから」
「んー…たしかにちょっと、苦しいかな」
 見るからに佐助は憔悴しきっていた。それはただ単に、長い時間、遠い距離を駆けてきたことだけが理由ではないと思う。それでも佐助は、しっかりと顔をあげてわたしに言った。


「旦那、幸せだったって言ってた。ほたるちゃんと出逢えてよかったって、ほたるちゃんには幸せになってもらいたいんだって、それが最期の言葉だよ」
「……そんなの、ずるい」
「旦那の言葉、大切にしてやって」


 ばかじゃないの。どうしてわたしの幸せが、幸村なしで成り立つっていうの。いったいどうやって幸せになれっていうの。どうして どうやって 誰が 何が このかなしみを紛らわしてくれるっていうの ねえ、幸村。
 この世界で、わたしはどう頑張っても幸せにはなれそうにない。
 苦しかった。悲しかった。こころがばらばらに砕けてしまえばいいと思った。
 この喉を貫けば、胸を裂けば、わたしは楽になれる?ねえ、幸村、教えてよ。


 答えてくれる声は、ない。
 目の前にある朱色のそれだけが、現実だった。