「わたし、だめね」


 そう言うと、姫さんは自嘲気味に笑った。うつむいた拍子にさらさらと黒髪が肩を滑り落ちる。その肩は見ていて切なくなるほど細かった。さみしそうな、かなしそうな、顔。こういう表情をする姫さんを見ると、何故だかこっちまで胸が痛む気がして困る。おかしいなあ、心は捨てたはずなのに。


「女として、役立たずだもの。…父上に、武田家に貢献すらできないから」


 布団のうえで組んだ指だって、袖口から見える手首だって、白くて細くて、折れてしまいそうなほどだ。
 姫さん―寿々姫様は、今年で十七になる。普通なら、もうとっくにどこかの男のもとへ嫁入りして、世継ぎのひとりやふたりを産んでいてもいいはずだけど、それをさせないのは父である大将、武田信玄の意思だった。
 生まれつき心の臓を患っている姫さんは、たいせつに護られて今まで育てられてきた。彼女自身はそれを負い目に感じているらしいけど、姫さんはなにも悪くない。現にあの奥州からだって、結婚の打診はあった。でも、その事実を知らせたら姫さんは嫁に行くって言い張って聞かないに違いないから、何も言っていない。たぶん大将は、これからも言わないつもりなんだろう。自分は口出しできる立場にいないけれど、それでいい、と勝手に思っている。


「みんな、姫さんが大好きだよ。とっても大事なんだ」


 姫さんの呟きに答えたこの言葉にうそ偽りはない。大将はもちろん、俺様だって、旦那だって、女中だって家臣だって、武田の連中はみんな、心からそう思っている。姫さんに一日でも長生きして欲しい。心からそう願っている。


「父上は、わたしを甘やかしすぎだと思わない?」
「誰だって娘は可愛いモンでしょ、だから普通だよ」
「そう?」
「そうそう」
「…佐助が言うなら、そうなのかもね」
「俺様の言うことに間違いはなーし」
 不健康な白さのなかにあっても、黒目がちな瞳は光を失ってはいない。桜色の唇が弧を描く、こぼれる笑顔は昔と変わらない。そして俺は、この笑顔に何度救われたか分からない。ずっと護りたいと思う、太陽のような笑顔。忍として闇に生きる自分を、明るく照らしてくれる姫さんのそれが、好きだった。いまだって、ほら。


「ありがとう、佐助」
「姫さんに感謝されることなんて、俺様なーんにもやってないけどねえ」
「佐助が思ってなくても、わたしは感謝してるの」
 いつも話し相手になってくれるじゃない―姫さんは笑った。うん、笑ってくれるなら、それだけでいい。他にはなにも望まない。ただ、姫さんがいつまでも笑っていてくれるなら。

「感謝してるなら、お給料あげてって大将に言っておいてよ」
 おどけてそう言ってみれば(直属の主は旦那だけど、も)、姫さんは意地悪く笑って言うのだ。
「佐助が、わたしのことをちゃあんと名前で呼んでくれたら、頼んであげる」
「そりゃ無理な相談だよ、姫さん」
「どうして? 昔は呼んでくれてたのに。幸村は呼んでくれるよ?」
 今は昔の話だ。身分とか自分の立場とか、そういうのをきちんと考えていなかった、忍としても半人前のまだまだ青臭いガキだったころの話。あまり血に濡れていなかったころ、とも言えるけど。
 姫さんは旦那と同い年だし、自分もそこまでふたりと歳が離れているわけじゃないから、なんとなく親近感が湧いて、なんとなく兄貴分になったような気がしてたころの話だ。よくも(未来の)自分の仕えるひとが仕えるひとの娘(ああ、意味わかんなくなりそう)を軽々しく「寿々ちゃん」なんて呼んでたな。それが許されていたあたり、本当に大将は器の大きなひとなんだろう。事実その光景を見ても、微笑ましいのう、とかは言われたけど咎められたことはなかった。
 でもそれも、歳を重ねるうちに自然に消滅していった。ひとはそれを成長と呼ぶ、らしい。初めて「姫さん」って呼んだときは、とても寂しそうな顔をしていたっけな。(ちなみに旦那も最初は渋っていたけど、最終的に姫さんの押しに負けて、昔のように名前を呼んでいる。)
「昔は昔、今は今でしょうが」
「じゃあこっそり呼んで。ふたりだけの秘密にしようよ」
 ふたりだけの秘密―なんて甘美な響きだろう。人差し指を唇の前で立てて、姫さんはいたずらっぽく笑った。ああそうだ、笑顔にも色んな種類がある。それは、忍として一人前に近づくにつれて、段々と感情を落としていく自分に、姫さんが教えてくれたことだ。
「じゃ、姫さん、俺様はそろそろお暇しますよーっと」
「あ! 逃げるのね! ずるいよ、佐助!」
「今度来るときは団子と旦那を持ってくるから、それで勘弁してちょーだい」
 姫さんの非難がましい声にひらひらと手を振りながら答えて、部屋をあとにする。後ろで、それは駄洒落なのかとか言うのが聞こえたけど、あえて返事はしなかった。廊下に出てふと庭を見ると、鮮やかな緑色に埋もれて、綺麗な白色の花が蕾をつけていた。
 もう何年も姫さんをそこから見守っているその花の名を、俺は未だに知らないままでいる。


 姫さんは一体どんな想いで この世界を見ているのだろう。