殿、某は、」


 ずっとずっと、きょうだい、だと思っていた。
 その大きな背中を追いかけるわたしを、いつも立ち止まり笑顔で振り返ってくれる、信頼できる兄上様のような、そんな存在。
 物心ついたときには、隣にいるのも、あたたかい手も、それが当たり前だった。一緒に空を見て、お団子を食べて、まるで武将にでもなったかのように武芸の真似事をした。
 そしてそれは、なにも知らないころのわたし。無知であること、幼いことが許されたころのわたしの姿。
 時間は変化を生む。
 幸村はあっという間に背が高くなって、わたしを呼ぶ声も低くなって、身体つきがたくましくなった。甘いものが好きなところは変わらないくせに。
 毎日毎日欠かさずに鍛錬をして、戦場を駆けて、勝利を導いて―
 戦から帰ってきて昂ぶっている彼を見るたびに、どこか知らない世界へと行ってしまった気がして、とてもさみしかった。わたしでは、とても追いつけない場所へ。



 時間は想いを生む。
 もっともっと触れたいと思うようになったのは、いつからだったろうか。己の中に存在する、あさましい想いを自覚したのは。
 殿に名前を呼ばれるたび、自分に向けられる笑顔を見るたび、伸ばされる白い手を取るたび、どうしようもなく抱きしめたいと感じるようになってしまった。柔らかな頬、淡い唇、優しい瞳。俺の知っている愛しい殿だ。
 しかし、年を重ねるにつれて蛹から美しい蝶へと羽化しようとする、見たことのない殿が、少女のなかから時折垣間見えるようになった。これが、女になりゆくということだとしたら、とても残酷だと思った。いつまでも、あのころのままではいられない。そんなことはとうに分かっていたはずなのに。



 この世に生まれ落ちた日から、わたしと幸村はちがっていた。そのことを、大きくなるにつれて理解するようになる。
 でも、許されるあいだは知らないふりをしていたかった。わたしたちはそれぞれに、決して交わることのない道を歩いていくのだから。
 もう、無邪気に笑いあえた昔のような関係ではいられない。何も知らない無知なわたしでいられたらどんなに幸せだったろう。

 ―幸村。わたしね、輿入れが決まったの。

 そう告げたときの、彼の表情といったら。何か伝えたい。けれど、何と言えばいい?

 切なげにゆれる幸村の瞳を見たら、何も言えなくなってしまった。
 幸村のこんな顔、わたしは知らない。


殿の知っている真田幸村は死んだのだ」
「ゆき、むら、わたし、」
「お慕い申し上げておりまする…姫様」
「ありがとう、幸村。ありがとう」


 いつもの彼からは想像できないくらい、弱々しくかすれた声。

 そのひとことで、十分だった。これ以上、何を望もうというのか。思いを遂げることさえ叶わぬというのに。


 組み敷かれて、首筋にかかる吐息が熱い。嫌悪感はなかった。
 わたしの知っている真田幸村は死んだのだという。知らない男は、彼はわたしの手を絡め取り、床へと押し付けて、かさついた指が、わたしの手首をやわらかく撫で付ける。
 わたしの両手を拘束する幸村の手は力強く大きい、武将の手。何人も殺め、何人も救ってきたその手。
 わたしに触れるそれはいつでも優しくて、いまでさえ優しくて、それがとてもかなしかった。


「幸村、苦しいの?」
 それが答えであるように、ふと、力が弱まる。残酷な問いであることはわかっていた。するりと手を抜いて起き上がると、そのまま幸村の頬へと添えた。
「泣きそう、とても」
「…某は、泣きませぬ」
「うそつき」
 儚い白さの繊細な指が頬を伝う。やさしく俺の目元をなぞる。この姫君はなんと残酷なことをおっしゃるのだろう。泣きそうなのは、姫様のほうではござらぬか。


「幸村、わたしにはうそをつかないでいいの」
 解放された両の手で、幸村を抱きしめる。そうして愚図る赤子をあやすように、彼の頭を包み込んだ。はっとしたように、幸村が息を呑む。
「姫、様」
「わたしは幸村に、これだけしかしてあげられないけど、許してね」
 この想いを言葉にしたら、すべてが崩れ去ってしまう気がした。だから言わない。言えない。
 あなたがくれた言葉を抱いて、わたしは生きてゆく。あなたのいない世界を。



「…ねえ、幸村。ずうっと昔のままで、いたかったな」
 涙を振り落とすように震えたのは、わたしの肩かそれとも。
 わたしの瞳はもう、彼と同じ世界を見てはいられないのだ。


白き手を伸べ うたかたの

た だ ひ た す ら に 、 あ な た を 恋 う る

Image song: Vermilion Tiara(妖精帝國)