※ほんのりとあるものを擬人化しています。ほとんどオリキャラのような扱いです。

海の青さも、空の青さも。



「怖くなどありません」

 潮風に長い黒髪をゆるく靡かせながら彼女は言った。汚れなき真白き軍服が、その腰に携えた刀の鞘が、きらりと光を反射させる。その姿があまりにも美しく、近くにいるのに遠く思えて、私は思わず目を細めた。
 海鳥が飛ぶ。波が砕ける。何もなければ、ただただ長閑な景色であるはずなのに。

「貴方のために命を賭けられる、こんなにも譽れ高きことは無いでしょう。貴方の勝利が、私の幸福。誇りに思うことはあれど、何を恐れる必要がありましょうか」

 今や、…否、前々から戦局は芳しくないことは誰の目にも明らかだった。その中での出征など、自ら死に逝くようなものである。誰もが薄々気づいている。ただ、それを認める者がこの国にはいないだけのこと。いつしか戦場は空へと変わっていった。空を支配したものが世界を掌握する時代になったのだ。
 降伏は恥、散華は譽れ。お国のために喜んで征けと、万歳三唱が聞こえる。
 抗いがたい世界の大きなうねりは、もはや私の力ではどうしようもないところまで来てしまった。誰かの流した血の匂いが、潮風に混じって漂って来るような気さえした。
 ―そうさせているのは、誰か。

「たとえ此の身が海に沈もうとも、わたしは征きます」

 どうして―、そのような問い掛けは最早、彼女の前では無意味であるらしい。
 潮風は彼女をいざなうように、その黒髪を弄んでいる。彼女はこれから何処へゆこうとしているのか、その結末に気付いてしまうのはとても恐ろしかった。愚かな私はずっと、これから先も気付かないふりをしていたいのだ。たとえ無責任だと謗られても。
 彼女を駆り立てるものは何か、それを私はきっと知っている。そうさせているのは、他でもない―。


「それに、弟も待っています。独りでもありません」


 ああおとうとよ君を泣く―ぽつりと彼女が言った。


「君死にたもうことなかれと、かつてそう歌ったあの女性(ひと)は、あちらでも悲しんでいるのでしょうか」

 かの女流歌人より、私は、目の前にいる彼女よりも先に逝った、彼女の弟のことを想った。
 私の記憶によって形作られた脳裏の彼は、とてもかなしそうな、さみしそうな顔をしている。姉さん、貴女がこちらに来るのはまだ早い―そう言っているように思えるのは、私のただの願望なのだろうか。

「生かされたいとは思わないのです。わたしは、与えられた運命を使命として果たしたいだけなのです。だから」
 ―怖くなどはありません。
 噛みしめるように、言い聞かせるように、彼女は言った。

 どうか思いとどまってくれ、そう言えないのが口惜しい。いや、思いとどまってくれなど、どの口が言うのか。彼女は、私から何かしらの言葉を貰うことを望んでいるようには見えなかった。

 いかないでくれ、そう言ったが最後、これまで私の下に積み上げられてきた数多の犠牲を冒涜することになる。そんなことは私の立場が許さない。嗚呼、立ち止まることも、振り返ることも、私には一生許されないことだった。栄枯盛衰にかかわらず、この国の行く末を見届けるために私は存在する。
 すべてすべて、仕方がないことなのだ。避けては通れぬ道なのだ。そう言いわけをする自分が実に愚かしく滑稽に思える。誰かに非難されたわけではないというのに、私は一人、逃げ道を探している。
 彼らを駆り立てているのは、他でもない私自身なのに。

桜花さん」
「本田殿。良いのですよ、大丈夫ですから」
 何かを話そうとその名を呼べど、言葉は何も出てきてはくれなかった。すべて心得ているとばかりに、彼女は微笑む。白々しく死ぬなと言えばいいのか、果てのない武運を祈ればいいのか。どのような言葉も、彼女を前にしたら陳腐な響きしか纏わない。
 だから私は何も言わぬまま、言えぬままに、その凛とした美しき横顔をただ見つめることしか出来なかった。


「本田殿」
「なんでしょう」
「きっと斃れないでくださいね」
「貴方が在る限り、この国は何度だって立ち上がる」
 目が合う。彼女の瞳は、私を通して未来を見据えている。
 しかし、そこに彼女はいないことを、彼女自身が知っている。

「貴方と出逢えて、この国に生まれて、本当に良かった。生んでくださって、ありがとう」


 否。私は、彼女を生んだのではない。私は、彼女をただ崩壊へと追い立てるだけの存在にしか過ぎないのだ。貴い笑顔で、彼女に謝辞を述べられるような資格はないというのに。それでも彼女は笑うのだろう。散るのを潔しと受け入れるのだろう。今までの彼らがそうであったように。


桜花さん」
「はい」
「きっとまた、会いましょう」
「…さようなら、またいつか、きっと」

 ―それまではしばしのお別れですね。どうかお元気で。
 そう優しく微笑む彼女の姿を灼きつけるように、私はそっと瞳を閉じた。




海鳴りの残滓は、今なお響く。




紺青の別れ
ああ愛しき我が祖国よ。たとえこの身は朽ちようとも、魂は貴方と共に。

Thanks image: mattarihonpo+(閉鎖)